山藤太郎の丘を越えては実在で藤山一郎がモデル

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NHKの朝ドラ「エール」のタイトルは「紺碧の空(こんぺきのそら)」。

コロンブスレコードと契約したものの、1曲も採用されずくすぶっている古山裕一に早稲田大学の応援歌の依頼が。

これは楽しみですね!!!

そんな中、コロンブスレコードの古山裕一の同期である木枯正人(こがらしまさと)は順調に作曲をしているのですが・・・

そこで新たな歌手が登場!その名も山藤太郎(やまふじたろう)!!!しかも名曲「丘を越えて」のレコーディング。

山藤太郎を演じているキャスト俳優はミュージカル俳優の柿澤勇人さんです。

若い人でも「聞いたことあるけど??」と思う人も多いと思います。山藤太郎のモデルは藤山一郎(ふじやまいちろう)さんで、実在の人物。

もちろん「丘を越えて」も実在するヒット曲です。

今回は朝ドラ「エール」に登場した山藤太郎と名曲「丘を越えて」のモデルの藤山一郎さんと曲についてご紹介していきます。

また本当に木枯正人のモデルになった古賀政男(こがまさお)さんが作曲したのか?ご紹介していきます。

目次

山藤太郎が「丘を越えて」を熱唱!演じるのはミュージカル俳優の柿澤勇人!

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5月18日に登場して、視聴者に大きなインパクトを与えた山藤太郎(やまふじたろう)。

実在の名曲「丘を越えて」をレコーディングしていた山藤太郎が、古山裕一と対面していました。

裕一の同期でライバルの木枯正人が作曲した曲でしたね。

裕一が1曲も作れない中、順調に見える木枯正人に、ディレクターの廿日市 誉(古田新太)も上機嫌でしたね。

また演じる柿澤勇人さんについて簡単にご紹介していきます。

柿澤勇人

生年月日 1987年10月12日
出身地 神奈川県
血液型 B型
身長 175cm
サイズ B)89cm W)70cm H)88cm S)26.5cm
趣味・特技 サッカー、ピアノ、英語(日常会話)、温泉巡り
デビュー 2007年(劇団四季公演「ジーザス・クライスト=スーパースター」)

引用元:公式サイト

柿澤勇人さんもともとは、高校まではサッカーに打ち込み、プロを目指していたほどの実力でした。

しかし高校一年生の時に見た劇団四季の「ライオンキング」をみてシンバ役をやりたいと思ったことがきっかけに俳優を志します。

そして、高校に通いながらミュージカルの勉強。

そして、2007年に100倍以上の倍率の中劇団四季の養成所に入所。

そして2007年にデビューし、翌年の2008年には念願の「ライオンキング」のシンバ役も射止める快挙。

他にも「人間になりたがった猫」、「春のめざめ」で主演を務めている実力です。

そして、2009年には劇団四季を退団し、2011年にホリプロに所属。

現在は、多くのミュージカルなどの舞台のお仕事をしつつも、映画はドラマなどの俳優としても大活躍。

以降で、詳しく山藤太郎のモデルになった藤山一郎さんと名曲「丘を越えて」についてご紹介していきます。

ミュージカルでは主演の作品も多い、浦井健治さんなどと並ぶ、井上芳雄さんなどと並ぶ、ミュージカル界の人気俳優の1人です。

 

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山藤太郎のモデル藤山一郎と名曲「丘を越えて」は実在

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名曲「丘を越えて」の実話とは?

まずは、名曲「丘を越えて」をお聞きください♪

「丘を越えて」は、1931年(昭和6年)にエールの「コロンビアレコード」のモデルとなっている「日本コロムビア」から発売された昭和歌謡。

当時の映画『姉』の主題歌であり、作詞は島田芳文さんで、作曲は古賀政男さん。そう、古賀政男は木枯正人のモデルになった人物で、実話のストーリーだったんですね。

「丘を越えて」は古賀政男自身の青春の思い出を曲にした作品とのことで、藤山一郎さん歌いの大ヒット。

このヒットにより、藤山一郎さんの歌手としての人気を決定づけたと言われています。

この「丘を越えては」もともとは「ピクニック」というタイトルで、古賀政男さんが明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲したもので、局が先にできていました。そしてこの曲に作詞家の島田芳文さんが詞をつけて「丘を越えて」が完成!

今でも多くの人に歌い継がれる、あまりにも有名な楽曲です。

ちなみに西田敏行さん主演の映画「丘を越えて」

この映画の主題歌として、つじあやのさんが「丘を越えて」をカバーしました。

また「丘を越えて」と言えば、トヨタのカローラのCMを個人的に思い出します。

 

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山藤太郎のモデル藤山一郎とは?

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そんな「丘を越えて」を大ヒットさせた歌手の藤山一郎さんのご紹介です。

ドラマの中でも、独学だった古山裕一と対照的に「慶応義塾大学から、東京音楽学校声楽科のエリート」という設定だった山藤太郎でしたが、モデルの藤山一郎さんも、東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業したエリートでした。

幼いころは、慶應義塾幼稚舎に入り・・・といわゆる「おぼちゃま」だった藤山一郎さん。

その後、慶應義塾普通部(中学校)を卒業した後に、東京音楽学校に入学し、音楽を学びます。

そんなお金持ちのご子息だった藤山一郎さんですが音楽学校進学後、世界恐慌の影響を受けた昭和恐慌により実家の商売の経営が傾き、多額の借金を抱え廃業。少し、裕一の境遇とかぶりますね。

藤山一郎さんは家計を助けようと写譜のアルバイトをしていましたが、収入が少なく、レコードの「歌唱」の仕事をしていました。もちろんこのような校外演奏のアルバイトは「東京音楽学校」では禁止行為。内緒でのアルバイトでした。

「エール」でもお金が必要だから・・・と「丘を越えて」のレコーディングをしていたことを明かしていました。

そして1931年から1932年にかけて多くの歌謡曲の歌唱を行った藤山一郎さん。

当時「酒は涙か溜息か」も大ヒット。

その中の1曲が「丘を越えて」でした。そしてよくも悪くも・・・大ヒットしたことから・・・このアルバイトが後々大学にバレることになり、退学騒動に。

しかし、多くの人々が藤山一郎さんの退学に反対してくれたことから、1か月の停学で済むことに。

その後、なんと音楽学校を首席で卒業した藤山一郎さん。本当に優秀な学生さんだったことがわかります。

その後、『週刊音楽新聞』では、藤山一郎さんの卒業演奏だったの独唱を取り上げて、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評されていました。

しかし、藤山一郎さんはレコードの歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強かったとのことで、卒業直後にビクターに入社し、専属歌手となりました。

ビクターは卒業の前年から藤山一郎さんに接触。なんと毎月100円の学費援助を行っていたそうです。

しかし、ビクターでは、コロンビア時代ほどのヒットに恵まれず。その後「テイチク」に移籍した藤山一郎さん。

なんと「丘を越えて」の作曲を手掛けた古賀政男さんも当時、コロンビアから「テイチク」に移籍していたことから、テイチクへの移籍を決めたのでした。

そして、古賀政男さん作曲の『東京ラプソディ』がヒットしたことから、その歌唱印税で、なんと実家の借金を返済することができた藤山一郎さん。

他にも『夜明けの唄』などヒットをとばしていった藤山一郎さん。

その後、方向性の違いから、再び「テイチク」をやめ「コロンビア」へ移籍。

服部良一さんとの初のコンビによる『懐かしのボレロ』などヒットを飛ばします。

しかし・・・に太平洋戦争がはじまると、藤山一郎さんの音楽活動にも大きな影響が。

このころ、芸能の仕事をする人たちに、各地に駐屯していた日本兵に娯楽を与えるため慰問団の結成依頼がきていました。

藤山一郎さんもお国の役に立ちたいと、音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いが強かったこともあり、ヨーロッパ各地の慰問をします。

そして・・・1945年8月15日の終戦を藤山一郎さんはジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中知ることになります。

もちろん、終戦まで戦死することなく、生きていたことは幸運だったお思います。

しかし藤山一郎さんは、なんと独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜になってしまいます。

その後、捕虜生活は続き、藤山一郎さんが帰国できたのは1946年7月のことでした。

そして帰国後は、藤山一郎さんは、日本での歌手活動を再開!

戦前と同じようにヒット曲を連発。

国民的歌手、指揮者として活躍していた藤山一郎さん。

1972年には「日本歌手協会」会長に就任。また1992年には国民栄誉賞を受賞しました。

 

 

山藤太郎の丘を越えては実在で藤山一郎がモデルまとめ

朝ドラ「エール」に登場した山藤太郎の名曲「丘を越えて」やモデルになった「藤山一郎」さんの実話のストーリーのまとめいかがだったでしょうか?

実在モデルの藤山一郎さんの素晴らしい功績をご紹介しました。

多くの実在の著名な方が登場する朝ドラ「エール」。

実際のエピソードと照らし合わせてみると、更に楽しいと思います。

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