古関裕而とインパール作戦の実話は壮絶だった!戦慄の戦地の状況とは?

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NHK朝ドラ「エール」が戦争の時代に突入。

朝ドラとしては珍しく、朝から戦時中の描写に鋭く切り込んでいるところが話題です。

賛否はあるようですが、個人的には多くの人が見る作品で、戦争の残酷さ、戦争はいけないものだと伝えることは、意義があるものだと思いながら、毎朝重い気持ちになりながらも(^^;

ストーリー展開に注目しています。

そんなドラマ「エール」ですが、作曲家の古山裕一(こやまゆういち)が、多くの軍歌を作曲し、ヒットを飛ばし、若者など人々が、裕一の作曲した軍歌に影響されている様子が描かれているのですが、そんな裕一がとうとう戦地に行くことになります。

軍からの依頼を受け、慰問で戦地に行くことに。その場所はビルマで「インパール作戦」が展開されている危険な場所でした。

実は古山裕一のモデルになっている作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)さんも、インパール作戦が行われていたビルマに慰問に行っていたんです。そう、実話なんです。

古関裕而とインパール作戦の実話について、ご紹介していきます。

古関裕而もインパール作戦の戦地に慰問?壮絶な実話とは?

朝ドラ「エール」では、古山裕一が慰問先のインパール作戦が進行中のビルマで壮絶な体験をすることになります。

では、モデルとなった古関裕而さんはどうだったのでしょうか?以降で詳しくご紹介していきます。

インパール作戦とは?

そもそもインパール作戦とはどういう作戦だったのでしょうか??

インパール作戦とは、川幅が600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを3週間で攻略する計画。

当時、無謀だと言われていましたが1944年3月に決行されました。

大河と山を越えて、最大470キロを踏破する過去に前例のない作戦で、3週間の短期間を想定した作戦だったことから、3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たち。

しかし、川幅最長600メートルという河が兵士たちの前に、立ちはだかります。

どう考えても、重い荷物を持ち、600メートルの河川を渡るのは無理です。

しかも、空襲を避けるため夜間に河を渡ることに。荷物の運搬と食用のために集めた牛の半数が流されたそうです。

兵士たちの疲労と絶望を想うと、泣けてきます。しかし、地獄はここからです。

それでもやっと川を越えたと思ったら、今度は標高2,000メートルを超える山が連なるアラカン山系が立ちはだかります。

もちろん車など通れません。

なんと、トラックや大砲は解体して持ち運んだそうです。

簡単に書いてしまいましたが、すごい動力を必要とします。

こうして、兵士たちは、戦いを前に消耗していきます。そして、イギリス軍と戦うことになるのですがこの状態で勝てる訳ありません。

大量の死者を出しながら、前に進み、結果、日本軍はインパールに誰1人たどり着くことなく、およそ3万人が命を落としたと言われている作戦。

その過程では、食糧がなくなり、多くの人が餓死したという話もあります。食糧の取り合いなど、凄惨な状況だったようです。

以下の記事にその壮絶な内容が詳しく載っているので、是非ご覧ください。

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170922/index.html

 

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インパール作戦の戦地に古関裕而は行ったの?

ここまでインパール作戦の壮絶な内容をご紹介したのですが、作曲家の古関裕而さんがこの作戦の戦地に本当に行ったのか?疑いたくなるほどの、悲惨な状況でした。

古関裕而さんは、インパール作戦の「特別報道班員派遣」として従軍することになりました。

当時、古関裕而さんとともに、作家の火野葦平さん、画家の向井潤吉さん、朝日新聞記者の野呂信次郎が従軍記者としていらしゃいました。

この3人は、朝ドラ「エール」にも登場します。

古関裕而さんははビルマ・ラングーンに数ヶ月滞在しました。

この時、現地の音楽文化に触れることができたことは良い思い出だったそうです。

しかし、一方で、戦争の恐ろしさ、悲惨さを痛感することに。

当時、ビルマの首都では、ペストが流行していました。

十分な医療を受けれない状況で死を意味する感染病だったことがわかります。

このことで、古関裕而さんは感染の恐怖におびえながら「ビルマ派遣軍の歌」を完成させたようです。

また古関裕而さんは実際に最前線に行くことはなかったそうですが、実際に前線を体験することになった作家の火野葦平さんなどからその体験を伝え聞いたことで、戦地の悲惨さを知ることになったそうでした。

ちなみに火野葦平さんが残した手帳には、当時の食糧事情を表す衝撃の文面が。

「前線にダイナマイトを100キロ送ると50キロしかないと報告がくる。兵隊が食うのである」とある。ダイナマイトの原料のニトログリセリンは口に含むと甘い味がするのだ。火野はこうも記している。

引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/aa09c57e42f6d398c7a8763536d23d855a7290f8

そんな辛い体験をした火野さんですが戦後には、戦犯作家として激しく攻撃を受けることになり、公職追放処分を受けました。

そして、その後1960年53歳の誕生日の前日に自殺されています。もちろん自殺した理由は不明ですが戦争が影響しているのでは?と多くの人が思うところだと思います。

 

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古関裕而がモデルになった古山裕一のインパール作戦のネタバレは

古山裕一がインパール作戦の惨状を聞く

朝ドラ「エール」では、本当のインパール作戦の残酷さが描かれるのは難しいですが、裕一もビルマのインパール作戦の最中のビルマに行き、壮絶な体験をします。

おそらく、作家の火野葦平さん、画家の向井潤吉さんをモデルとした、作家の水野伸平と洋画家の中井潤一が戦地を自らの目で見てみたいと言い、志願して前線に行くことに。

そいて2か月後・・・前線から戻った中井の姿は別人のように、変わり果てていました。

中井は、戦場の惨状を描いたスケッチを裕一に見せました。

そして前線は地獄だと言います。武器や食料の補給が追い付かず、戦う以前に命を保つのは難しい。そして「古山さん、日本は負けます。命を尊重しない戦いに未来はありません」と伝えるのでした。

ここまでもストーリーを見ると、実話に近いと思いました。

 

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ビルマで裕一に最大の悲劇が

そして・・・裕一がビルマに来た理由の1つに、恩師の藤堂先生に会うことがありました。

藤堂先生の出征前にはこんな感動の再会がありましたが

妻と息子を残し、戦地に行ってしまった藤堂先生。

そんな藤堂先生がいる駐屯地の場所を聞き、裕一は藤堂先生と久々の再会をすることになります。

そして藤堂先生と戦地の兵士たちのために、コンサートを開きたいと楽器を集めて持ってきていました。

藤堂先生は、裕一がそう言うと思い、楽器のできる兵士たちを集めていました。

そして翌日コンサートをしよう!と決め、準備をすすめます。

翌日のコンサートに向けて、皆で練習し、酒を酌み交わし、楽しい時間をすごします。

そしてコンサート翌日、藤堂先生から裕一は「俺が死んだら渡してくれ」と妻の昌子さん宛てに手紙を託されました。

駐屯地では、コンサートの準備が進行中でした。

本番前にもう一度練習をしようとした裕一。

しかしそこに銃声が。

そう・・・なんと敵の狙撃兵でした。

藤堂先生は急いで裕一を車の下に押し込み、銃撃戦に。銃声と悲鳴、爆発音が響き渡ります。

そして・・・藤堂先生が裕一の前で撃たれます。

裕一は藤堂先生に駆け寄ると

「お前に会えてよかった。妻と息子を頼む」と言い、藤堂先生は力尽きてしまいました。

それから、間もなくインパール作戦は中止されることになりました。

大切な恩師である藤堂先生が目の前で亡くなるという悲惨な体験。しかし、これが戦争の現実であることがわかる、重要なシーンだと思います。

古関裕而さんがインパール作戦で体験したことをそのまま朝ドラで描くことは難しいと思いますが、十分いろいろなことが伝わるストーリーになっていると思いました。

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